事務局のつぶやき(不定期)


カテゴリ:blog コラム 事務局からのお知らせ | 投稿日:2020年05月09日

不定期配信の「事務局のつぶやき」をお届けします。

尾道で暮らす中で感じたことや講義としてカタチになる前の企画のタネを言語化してみる試みです。

つぶやきなので、あえて「です」「ます」調ではなく、独り言のように淡々とつぶやきます。

______________________________________________

自分の声を丁寧に紡ぐこと / 事務局 高野哲成

世の中には言葉が溢れている
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、世界各国の政府や行政の発表、マスコミの報道、SNS上の投稿など、沢山の言葉を見聞きする中で、実際の世界は一つでも、それぞれの人によって見えている世界が全然違うということを改めて感じた。

ウイルスの感染拡大を抑えること、医療崩壊を防ぐこと、命や生活を守ることなど、目的は同じでも検査や支援のあり方など、何を優先するかで意見が真逆にもなる。

言葉の背景にあるもの
どんな情報にもそれが発せられた背景があり、言葉にも発した人の見ている世界が現れる。
だから、情報や言葉に接する時は出来るだけその背景を読み解く努力をしたいと思う。SNSなら、その人の別の投稿に目を通すことで、行間に隠された意図やその人の見ている世界を推測する事ができる。

新型コロナに関するまとまった情報としては、厚生労働省の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の見解等(新型コロナウイルス感染症)」というページなどを見て、政府の見解をある程度知っておくことも大事だと思う。それを信じる/信じないは自由だが、世の中の常識は知っておいて損は無いからだ。

因みに、5月1日の「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」を見ると「感染の状況」、「行動変容の状況」、「今後の見通しについて」、「今後求められる対応について」などの情報がまとめられていて、新型コロナ感染拡大に伴って発生する様々な「社会的な課題への対応」についても触れられている。

「社会的な課題への対応」
・ 長期間にわたる外出自粛等によるメンタルヘルスへの影響、配偶者からの暴力や児童虐待
・ 営業自粛等による倒産、失業、自殺等
・ 感染者やその家族、医療従事者等に対する差別や風評被害
・ 社会的に孤立しがちな一人暮らしの高齢者、休業中のひとり親家庭等の生活
・ 外出自粛等の下での高齢者等の健康維持・介護サービス確保
・ 亡くなられた方に対して尊厳を持ってお別れ、火葬等が行われるための適切な感染予防方法の周知
(引用:厚生労働省HP 5月1日の「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」より)

自分が情報を拡散したり、コメントする時は、出来るだけその情報の背景を理解し、視野が狭くならないように気をつけながら、なるべくポジティブな発信を心掛けたいと思う。

自分の声を届ける方法を考える
いま、政府関係者の発言や対応に不安を感じ、日頃、自分たちが政治に関心を持ってこなかったことを反省する声があるが、国会で追及されても、SNS上で批判されても、本人達は痛くもかゆくも無さそうだ。この様子を見ていると、日本の「民主主義」がいかに発展途上なのか、ということを痛感する。

その原因の一つとして、日本は「資本主義」の影響が強く、支持者層の経済力や持っている票の大きさがそのまま政治上の影響力となり、影響力の小さい一般市民による、「反原発を訴えるデモ」「普天間基地の入口で座り込み」のような「声」が上がっても、その後の選挙の結果にもほとんど影響を与えていないように思う。

また、森友・加計問題桜を見る会問題広島選出の国会議員の公職選挙法違反(買収)疑惑など、様々な政治とカネに関する疑惑が報じられても、結局、事実はわからないままだ。

これらについて誰かを批判したいのではない。恐らく、政治の世界ではこういうことが当たり前に行われていて、仮にこれらの訴えが事実だとしても、当事者にはスポーツにおけるラフプレーのよう感覚なのだろう。

ただ、ふと、そういう意識や感覚のズレも含めて、どうすれば政治に市民の声が届き、真摯な議論がなされ、きちんと説明責任を果たすインセンティブが生まれるのだろうという疑問が生まれる。

政治は単なるパワーゲームなのか?
日本には本音と建前の文化があると言われるが、いまの日本の政治を見ると「説明責任」や「憲法」さえも建前で、本音としては、いかにお金と権力を駆使して味方を増やすかという、パワーゲームになっているように感じる。

法律家団体9団体が声明を発表した東京高検検事長黒川弘務氏の任期延長などもその一つだろう。

選挙に勝つため、法案を通すため、強力な地盤やリーダーシップは必要だ。しかし、異なる意見を力でねじ伏せたり、真っ当な批判や記者から投げ掛けられた質問に対して真摯に答えないどころか、裏で決着が付いてしまうというのは、民主主義の根幹に関わることだと思う。しかし、与党というのはそれを支持している人が多いから与党なのであって、支持者がいる以上、政治を変えれば世の中が変わるというのは順番が逆なのかもしれない。

自民党による長期一党体制の続く日本で何かを成し遂げるためには、まずパワーゲームで勝つための何か「強み」が必要そうだ。

日本の民主主義を前進されるには
そんな状況の中、どうすれば日本の「民主主義」を前進させることが出来るのだろうか?

そこで、まずは基本にかえって第16代アメリカ合衆国大統領 リンカーンの「ゲティスバーグ演説」の内容を読んでみたい。この演説は「人民の人民による人民のための政治」という言葉で知られている。

(ゲティスバーグ演説)

「87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、人はみな平等に創られているという信条にささげられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。今われわれは、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。(中略)ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。―それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。」
(引用:米国大使館HP 国務省出版物より)

ここでは「自由」と「人民の人民による人民のための政治」守るために「われわれ」=現代に生きる人の「献身」が必要だと語られている。そして、この精神は「日本憲法」にも活かされているという。

(憲法前文)

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
(引用:衆議院HP 日本国憲法)

日本人なら一度は学校等で習うが、改めて、その内容の普遍性に驚かされた。

憲法前文には、現代に生きる自分たちだけでなく「子孫」や「他国」にも想いを寄せ、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という世界観を提起し、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と締めくくられている。

日本/日本人が世界に対して果たすべき役割を改めて考えさせられる内容だった。

いま、改めて「民主主義」を学ぶ
政治に参加するための第一歩として「選挙」に参加して投票することが挙げられるが、投票率を上げるための様々な取り組みが行われても、投票率は一向に上がる気配がない。

投票したい人がいない、誰に投票しても同じ、という人も多いと思うが、その背景には、政治不信だけでなく、自分がどうこうしなくても世の中のことは政府がなんとかしてくれるという、政府への依存と過剰な期待があるように感じる。

いつからそうなってしまったのだろうか。

憲法前文を読んでみたところで、あまりに崇高で抽象的過ぎて、じゃあ、それを普段どう活かしたら良いのか?と言われると僕も返答に困る。しかし、それも当然なのかもしれない。

日本は、明治以降、止まることなく走り続けてきた。

戦争を経験し、空襲、原爆投下、敗戦、GHQによる統治

高度経済成長、公害や森林破壊など環境問題の発生、バブル崩壊

少子高齢化、IT企業の台頭、ベンチャー企業の台頭

社会変革の遅れ、震災、原発事故の発生

新興国の台頭、長引く不況、経済格差の拡大

市民活動の広がり、暮らし方/働き方を見直す動きの広がり

豪雨災害、そして新型コロナウイルスの感染拡大

戦後70年間、こんなに目まぐるしい時代の変化の中を日本人は走り続けてきた。

基本「経済成長」路線の中で、インフラ整備が道路やハコモノなどのハードウェアに偏り、新たな需要を喚起するように生活習慣の変化が進んでも、敗戦国である日本は国を動かす「政治」や「民主主義」というソフトウェアは未成熟なままだったのかもしれない。

自分の声を紡ぐための教育
いま戦後70年間変わらなかった「教育」にも変革の機運が高まっている。文部科学省のホームページには平成29年・30年に発表された新学習要領について、「改訂に込められた思い」が記されている。

「学校で学んだことが,子供たちの「生きる力」となって,明日に,そしてその先の人生につながってほしい。
これからの社会が,どんなに変化して予測困難な時代になっても,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,判断して行動し,それぞれに思い描く幸せを実現してほしい。そして,明るい未来を,共に創っていきたい。
2020年度から始まる新しい「学習指導要領」には,そうした願いが込められています。
これまで大切にされてきた,子供たちに「生きる力」を育む,という目標は,これからも変わることはありません。一方で,社会の変化を見据え,新たな学びへと進化を目指します。
生きる力 学びの,その先へ 新しい「学習指導要領」の内容を,多くの方々と共有しながら,子供たちの学びを社会全体で応援していきたいと考えています。」
(引用:文部科学省 平成29・30年改訂学習指導要領のくわしい内容より)

尾道自由大学も地域に開かれた学びの場として、生涯教育オルタナティブ教育という文脈で活動している。

これからの教育はどのように変わっていくべきか?
その答えは一つでは無いと思うが、自分個人の意見としては、世の中を一つの物差しで測って型に嵌めるのでは無く、それぞれの人が、それぞれの場所や境遇で幸せに生きていける力を養える教育が求められていると思う。そして、それぞれの人が自分の声を丁寧に紡ぎ、その声が地域に開かれ、政治の世界に届いて行くような社会になることを期待する。

そして、憲法や法律と自分の見ている世界を照らし合わせて考えたり、個人の悩みから政策まで、広い視野で考えて、どんな国を作って行くべきか/作って行きたいか?というところに意識が向くようになれば、日本の民主主義もいよいよ前進するのだと思う。

「経済成長」路線をひた走ってきた世界が一斉に立ち止まり、これからの「生き方」を模索している今こそ、固定概念や前提条件を疑い、日本が「復興」する姿を一からデザイン出来るチャンスなのかもしれない。

以上

大きな変化を経験する中で、心のバランスをとる為、自分の頭の中を整理するための投稿でした。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

(text by 尾道自由大学 事務局 高野哲成)


ONOMICHI FREEDOM UNIVERSITY 尾道自由大学