こんにちは!尾道自由大学 事務局の高野です!
新年度も始まり、就職、進学、引っ越しなど新生活のリズムは掴めて来たでしょうか?
不定期配信の「事務局のつぶやき」GWバージョンをお届けします。
思い返せば7年前のGW、当時、医療機器メーカーの社員だった僕は、会社を辞めることを心に決め、当日住んでいた静岡から山口を目指して鈍行列車で旅をしていました。
静岡〜大阪〜岡山〜倉敷〜尾道〜山口という旅の中で今の暮らしや仕事の骨格を成す様な出会いが数多くあり、いまに繋がっています。
いつでも、どんな状況でも自分の固定概念を外せば身の回りには「気付き」が溢れているはず。
尾道で暮らす中で感じたことや講義としてカタチになる前の企画のタネを言語化してみる試みです。
つぶやきなので、あえて「です」「ます」調ではなく、独り言のように淡々とつぶやきます。
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一つのスピーカーとの出会い
昔からオーディオが好きで、最近、Tribit StormBox Microという小型のBluetoothスピーカーの音質が思った以上に良く、中国メーカーの台頭を改めて実感した。
BOSEやJBLといったアメリカ的な音ではなく、往年のCELESTIONのスピーカーの様なイギリスっぽい瑞々しい音というとイメージ出来る人もいるかもしれない。
深圳で挑戦する若者たち
最近、アジアのシリコンバレーと呼ばれる中国(深圳しんせん)から出てくる新興メーカーに驚かされることが多い。(以前からHuaweiやTencentといった大企業は知っていたけど、それよりもニッチな企業の方が面白い)
もともと深圳に興味を持ったキッカケはドローンのDJI社だけど、有名じゃない会社にも面白い会社がチラホラ、例えば、モバイルバッテリーのEcoFlow社やJackery社、ITガジェットのAnkerやThousand shores社など。(面白い会社をご存知の方は教えて下さい!)
これらの会社の特徴は、
・創業者が若いこと(殆ど20代)
・世界各国に事業所を展開するグローバル企業であること
・そして、特定のカテゴリーに特化しており、 日本の大手企業もその分野では価格だけでなく、デザインや機能面でも同等もしくは勝てないと判断し提携を結んでいること
年齢、職業に関わらず、我々日本人はこの時代の変化に対応出来ているだろうか?
20代で起業し大手企業と対等に渡り合う様な働き方は、90年代からアメリカのシリコンバレーの若者達がやって来たことで、日本でも「ベンチャー」や「起業」という言葉が定着して久しいけど、まだまだ昔ながらの「就活」や「終身雇用」的な価値観も強く残っている。
「地方には仕事がない」という言葉もそんな背景から出てくる言葉だと思う。
仕事は人材と環境さえ揃えば生み出して行けるはずなのに、その地域の大人達が古い価値観や世界観でその可能性を狭めてしまっていないだろうか?
まるで他人事の様に「地方には仕事がない」というのは、これからのその地域の未来を生きていく若者に対して無責任な言葉ではないか。
実際、地方に行けば様々な仕事がある。それなのに「仕事がない」という言葉が出てくるのはなぜか?
一つは、これまでその地域を支えて来た産業の衰退に伴う悲観的なムードや、地域の大人たちが挑戦してこなかった、もしくは、挑戦する人を応援してこなかった背景が想像される。
どんな生き方を選択をするかは個人の自由なので誰かを責めることは出来ない。でも、多くの地域で徐々に人口が減り、未来のために取り組まないといけないことがあるように感じる。
これまでの教育と、社会保障には少し改善の余地がありそうだ。
教育という面では、勉強が出来る人は沢山いるけど、新しいことや難しいとされることにチャレンジ出来る人、課題解決力のある人がまだまだ足りない。
よく勉強から逃げたらその先の人生からも逃げるのではないか?と言われるが、これは人生に必要な勉強といわゆる学校の勉強をごっちゃにしている様に感じる。
社会は偏差値や受験の合否のように結果がハッキリと出るようなシンプルな世界ではなく、もっと複雑で、どうやったら相手とwin-winの関係を築けるか?といったことが求められる。
自分のスキルを高めることばかりに集中して、世の中を広く俯瞰したり、人と自分の利害関係を一致させリスクをチャンスに変えるようなトレーニングをする機会が足りていないように思う。
それに、その時は評価されないことが後の世紀の発見に繋がったり、小学校時代に自分の名前も書けなかった人が一代でいまや生活に無くてはならないような企業の会長になっていたりする。当時、その少年を受け持った先生はそんなことを予想しただろうか?
人生の可能性は誰にも測れない。
本当のリスクとは?
本当は、新しい事業を立ち上げたり、古い常識の変革が遅れていることが日本の抱えているリスクなのに、学校では既存の「学力」にばかり目を奪われ、自分らしくあること、やりたいことに熱中したり、挑戦した人を評価したり、それぞれの子の個性を受け入れ、全体で支えるような仕組みになっていない。
国際競争や過疎化などの危機感から一部の業界や自治体は変革が行われて来たが、地方ではこれまでの常識や習慣が通用して来たため、企業においても自治体においても「人事制度」や「組織設計」など構造面の改革が進んでいないことが多い。
これは一人一人の意識の問題でもあり、その地域の企業や行政の変革が遅れているのは、その地域に教育における「物差し」に多様性が不足していて、「既存の制度やルール」に従うことや、その人を評価する物差しとして「教科」の点数で人と比べることに荷重を置き過ぎてきたことの弊害だと思われる。
世の中にはまだまだ発見されていないこと、長年解決されないまま放置されている問題が山積している。そんな中で、これからはどのような教育が求められるのだろうか?
現在、日本の学校でも英語やプログラミングの必修化など、コンテンツの変革を図っているが、教育改革の本丸は、学ぶことを増やすことではなく、コンテンツよりも学び方や校則、先生の就業規則など、学校の「運営の仕組み」自体のイノベーションだと考えられる。
例えば、学校では先生達の労働環境が「ブラック」だということが度々指摘されているが、教育に携わる人たちにはそういう構造的な問題の中で疲弊する姿ではなく、課題を自分たちで発見し、改革出来るんだというところを子ども達に見せて貰うことが大事だ。
先生達だけでなく大人は子ども達にどんな背中を見せたいか?自分が明日死ぬとしたら何を伝えるのか?そのことを意識する必要がある。
これまでの学校で学んできた子ども達の社会人像は恐らく「大人になる=我慢が出来る人」ということだと思う。でも、これからの時代を生きる子ども達の社会人像は「大人になる=課題を自ら発見し解決できる人」となることを期待する。
これからの時代に大事なのは子ども達が本来持っている姿のまま「楽しい、やってみよう!」という気持ちや、「なぜだろう?何だろう?」という問いを持ち続けられるかどうかだと思う。
学校は現在の社会の縮図ではなく、未来への希望を感じられる場所であるべきだ。
僕は自分だけじゃなく、周りの色々な人たちを見て来て、直感していることがある。
あなたが優秀な成績を納めていても、落第者でも、学校に通ってなくても、大した問題ではない。
思い出して欲しい、あなたの人生が今、病んでいても輝いていても、これまでもこれからも、先生も学校も人生の責任は取ってくれない。
失敗も成功も決めるのはあなた自身だ。
人生をもっと楽しもう。
もしあなたが大人だとしても子どもだとしても、未来はあなたの人生の先にある。
コロナ禍の世の中でも視野は広く。
世界は変化し続けている。
どこにいても自分たちの暮らしが世界と繋がっているという意識は持ち続けたい。
教育と社会やまちづくりは繋がっている。
あなたの自由な生き方とその地域の未来は繋がっている。
今の学校や職場で消耗しているあなたへ。
心の中に自分を保てる何かがあれば、環境は誰にだって変えられる。
(text by 尾道自由大学 事務局 高野哲成)