海賊とはなんだろう? 〜常識が破壊される瞬間〜
「海賊」というと、ヒゲをはやした荒くれ者の海の男達が、ありとあらゆる者を略奪しつくす。そんなイメージが定着しているかもしれません。もしかするとそのイメージは、18世紀に大西洋やカリブ海を荒らしまわった「黒ひげ」と呼ばれて恐れられたエドーワード・ティーチのようなイメージかもしれません。
確かに日本の海賊も奪う事はしましたし、戦争もしました。しかしそれが専門ではありません。常に略奪し、戦いを求めていたわけではありません。それは彼が海賊という略奪者だからではなく、「海の武士団」だったからなのです。陸で武力を背景にする武士団は英雄で、海で水先案内人や船の警護をしていた彼らがなぜ悪役となったのでしょうか??
国際商港都市、尾道
日本は中国の明国と150年間にわたり貿易をします。いわゆる日明貿易といわれるものですが、当時の尾道は、中国からの明船が約3週間も錨泊するほどの国際的商港都市だったのです。
尾道にはJR尾道駅から西日本最大の長さの商店街があるのをご存知でしょうか。実はこの真下に、今でもその中世の尾道の繁栄が眠っています。
歴史の転換期に海賊あり
平安時代末期の源平合戦、なぜ平家は敗北したのか。戦力的な面でいえば、伊予の豪族の河野氏(村上氏の本家筋にあたる)にそっぽを向かれてしまったことが大きいでしょう。
戦国時代の奇跡の逆転劇といえば、毛利元就と陶晴賢の「厳島の戦い」があります。綿密な元就の戦略によるものと言われていますが、実際には元就は劣勢が極まって途中でこの戦を途中で投げてしまっていました。「もうこんなの知らん(意訳)」と捨て台詞まで吐いています。
しかし、結果的には来島村上氏の海賊の援軍が到着、陶晴賢を撃破します。もしここで来島村上氏の海賊が味方していなかったら・・・後の大大名の毛利家もなかったのは間違いありませんでしたから、当然幕末の時代は違った歴史の姿になったことでしょう。
日本最大の海賊王
さて、このとき駆けつけた村上海賊団の援軍は2,300艘といわれています。もし略奪を生業にする人々が海賊であったのなら、略奪だけでこれだけの人々を動員することができたでしょうか?
この当時、彼ら「海賊」は瀬戸内一帯の流通網を持った大商人でもありました。海賊が味方についた、ということは軍事力以上に経済力という大きな意味があったのです。彼ら海の民にとって世界は、海で隔てられているのではなく、海で繋がっていたのです。
この講義のここが面白い
何かをなんとなくのイメージで語ったり、決めつけてしまったことはありませんか?
私たちは今まであまりにも「お勉強」が得意だったかもしれません。それは現代人の反省点でもあります。
海賊といわれれば野蛮な略奪者のようなイメージをもち、水軍といわれば後に呉鎮守府のような規律のある海軍をイメージしがちです。
しかし、実際に当時の史料で「海賊」と呼ばれた人々を学んでいくと、自分で原典に当たることの大事さと、自分で考えることの大事さ、そして実際に村上水軍の城などの遺跡群をツアーによって、体験で得たものに優る学びはない、という人生に大切なことを思い出すことができるのがこの講義です。
(第1期募集開始:2017年8月21日)
・海賊とは何か ・なぜ船は○○丸というのか ・尾道に寺院が多いワケ ・時代を動かしたひとびと
・海賊なのに、城を持っていたの!?因島村上氏の遺跡をめぐる
・海賊なのに、城を持っていたの!?因島村上氏の遺跡をめぐる
・向島を探索する
・外交戦略 ・終わりゆく「海賊」の時代
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